埼玉県小鹿野町

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小鹿野町と宮沢賢治

「雨ニモマケズ」や「銀河鉄道の夜」「風の又三郎」などの作品で有名な宮沢賢治が大正5(1916)年9月5日に小鹿野町を訪れています。

 

◆地質巡検で秩父を訪れる

宮沢賢治は小さいころから岩石・植物・昆虫などに興味を示し,とくに岩石が好きで「石こ賢さん」とも呼ばれていました。

盛岡高等農林学校の2年(20歳)の大正5年9月3日から8日までの間(推定),関豊太郎教授(1868-1955)の引率で,秩父の地質巡検(見学旅行)にやってきました。秩父地域は,明治34(1901)年,神保小虎(1867- 1924)が「我が国の地質学者が一生に必ず一度は行きて見るべき」と記した,巡検案内が地質学雑誌に載り,全国の地質学徒が訪れる,巡検の聖地となっていました。

この見学旅行の日程は,9月2日,熊谷に泊,3日に鉄道で寄居に移動,寄居町の象ヶ鼻・末野・波久礼を見学し,鉄道で皆野町に移動し泊,4日は金崎を見学,馬車に乗り,正午前に小鹿野町に到着,午後,皆本沢から赤平川を見学し小鹿野に戻り泊,5日には馬車と徒歩で三峰山に登り,三峰神社宿坊に泊,6日は三峰神社,妙法ヶ岳周辺の森林,薬草園などを見学し,秩父町に移動し泊,7日は武甲山に登り,橋立鍾乳洞などを見学し秩父町に泊,8日には鉄道で国神(現 上長瀞)に向かい,岩畳などを見学し,本野上駅(現 野上)から帰路に就いたと推定されています。

 

◆小鹿野町とのかかわり

宮沢賢治は秩父地質巡検で,親友の保阪嘉内宛に3通の葉書を送っています。(上野,小鹿野,秩父で投函)これらは現在,山梨県韮崎市民交流センターに保管されています。2通目の葉書には「埼玉・小鹿野 大正5年9月5日前9-12」の消印があります。

この投函された葉書には「山かひの町の土蔵のうすうすと夕もやに暮れわれら歌へり」(「歌へり」は後に「もだせり」と変更して発表)とあり,当時の小鹿野町の古い街並みを読んだものと思われる短歌が書かれています。ほかにも,宮沢賢治短歌群「唄稿A」には「小鹿野」と題し,「さはやかに半月かゝかる薄明の秩父の峡のかへり道かな」という短歌があります。これらは,5月4日小鹿野町三山の皆本沢から赤平川の地層を観察し,寿屋に向かう途中の情景を詠まれたものと考えられます。

また,旧寿旅館(現 小鹿野町観光交流館)を平成23年に町が購入した際の調査で,当主の田隝 保氏(1878-1956)の日記が発見されました。その大正5年9月4日の欄には「盛岡高等農林学校教授 関豊太郎 神野幾馬 両氏と生徒23人来宿す。午前中来館,三山皆本沢に向かわれ夜,帰宿せらる」等の記述があり,宮沢賢治が寿旅館に宿泊したことが確認されました。